さかな食堂

近況報告です。なんか作ったりどっか行ったりしたことを書ければいいなぁ。

9月とは

まだ暑いのに夏も終わりなんですね。釈然としねぇ。

昨晩は珍しくタイムリーに「夏の終わり」というタイトルで絵を描いたので貼っつけようと思ったのですが、アップロードがうまくいかないのでまたの機会に。

 

妄想と現実の区別がつかなくなって、とんでもないことを口走ってしまう、という夢を見ました。おお、恐ろしい...。

あと最近、夢でも仕事してるか仕事場の人が誰か必ずといっていいほど夢に登場するようになってきました。でも同じ作業場で働いてる人は一回も出てこなくて、絶対それ以外の誰かです。何故なのか。

 

気にしないようにしてきたことがじわじわと思考を侵食してきているのを感じています。加えて長いこと忘れてた不安と疑念が同時にちょっと蘇ってきてどことなくアンニュイ。

そんなもん幻想だ!!!と思って乗り切るしかないですね。

 

仕事初めてから悩んでることとかをあまり口に出さなくなったなと思います。

こっちに家族や友人がいないからということもあるのですが、自分の中であれこれ考えていたらなんとか収まりがつくことが多くて、知り合ってまだ日も浅い人たちに話し倒す前に一度自分で考えるようにしていたら、だんだん話さなくなってきて、近頃話題が枯渇してきているのを感じます...

どんだけ自分の暗い話題ばかり話の種にしてきていたかがよくわかりますね。もっと楽しい話ができるようになりたいもんだ。

 

あと、どうも上司が自分の中で解決できるようなことを人に押し付ける態度を嫌っているようでして、なおさら口にできない雰囲気。その上司に「君って口に出したときにはもう自分の中で答えが出てて、こっちが何を言っても変わらなさそう」と言われました。どっちもどっちですね。

今はまだ自分で解決できるような問題にしか直面していないからいいんだと楽観的に考えておこう。本当に大変なのは人の手を借りないと解決できない問題に出会ったときだ。

 

来月あたり、東京の元サークルメンバーの方たちがルームシェアしてるおうちに遊びに行こうかなと思っております。楽しみがあるって大事やな。

 

記憶とかについて

高校以前の自分、中でも中学時代の自分というものが思い出せないということに最近気づきました。仲が良かった友達の顔や性格や言葉は結構覚えてるんですが。

人は自分を守るために嫌な記憶を消してしまうこともあるそうですが、そういうものが働いてるんだろうなと思います。ただ、思い出せないだけであって、きっと記憶のどこかには残ってるんだろうと思います。今思い出してしまったら自分がぶれて不安定になってしまうだろうなぁとは感じていて、つまり思い出したくない、本気で思い出そうとしてないだけなんだろうなと。そこまで出かかってる感じはあるのです。

 

そんなことを考えていたら、わかりやすく、その頃の自分をちょっとだけ夢に見ました。面白がって、調子乗りで、余計なことばかり言って後悔する感じが生々しくて、懐かしむどころか、今すぐにでもあの頃に立ち戻ってしまいそうにすら感じて怖かったです。

あの頃の自分と今の自分に明確な境界線なんて何もないんだと感じました。ただ経過した時間と、その間に感じたり考えたり見たり聞いたりしたいろんなことがあるだけです。いつだってそうなはずなんですが、地続きなんだと改めて思うと、不安で逃げ出したくなりますね。

 

最近は専ら、無意識に自分を区分分けするのに精を出しているようで、分けてはがっかりして落ち込み、また分けては怒りが湧き、判断を改めたり境界線を反復横跳びでまたいだりして、あっちこっちと落ち着かず、そんな自分が至極面倒くさいです。

どっちが上でどっちが下かとか、嫌ったのはどっちだとか、そんな明確な答えの出ないことをはっきりさせようとせっせと理屈をこねまわす辺り、自分は本当に成長しないなと呆れます。

ともすれば個人を見るのを忘れてしまうのは疲れている故なのかもしれませんが、それでまた調子に乗って失礼なことばかりして、誠意のない態度を取って後悔するくらいなら、疲れ果ててしまった方がいいような気がしています。常々、自分は疲れているくらいが一番いいと感じています。

 

旅に出たい。ここから消え去って、誰も知ってる人のいない、どこか全然違う場所に行きたいです。投げやりだなぁと思います。

 

聞かなきゃいけない話がまったく頭に入らないのは

愛されたくて必死だから、というBUMPの「66号線」という曲の歌詞があるんですが、ものすごい身に覚えがあって気に入っています。

BUMPの曲にはたまに、見てんじゃねぇのかってくらいものすごい自分とリンクするものがあって、本当に吃驚します。他の人がどう聴いてるのかはわかりませんが、リンクするが故に、この感情をここまでそのままの形で届けられる藤原さんに驚愕の念が尽きません。特別BUMPが好きなわけではないのですが、いつもすごいなぁすごいなぁと思って聴いています。

強く共感できるものが形にされているのを見ると感謝の気持ちが湧いてきます。

 

昨晩、同じ店舗でよく楽しく雑談してくださる先輩二人に、新入社員歓迎会を開いてもらいました。仕事場の人だし、変なこと言ったらどうしよう、おとなしくしといた方がいいかしら、と少し落ち着かない気持ちで行ったんですが、いつも通り話しやすいお二人で、実に楽しい二時間を過ごさせてもらいました。

その中で、絵を描く、ということを話したんですが(大抵誰にでも話すんですが)、ちらっと描いたものを見てもらって、ものすごく褒めてもらって嬉しかったです。

「こんな風に描ける人って身近にいるもんなんだ」とまで言っていただいて、震えが止まらなくなりそうだ。

 

最近でこそ自分のために絵を描こうという気持ちが持てるようになり、恒常的に描きたい気持ちが保てるようになってきましたが、元々褒めてもらうために絵を描き出した人間でした。

すごいことができるすごい人間、というものへの憧れが小さい頃から異常にあって、褒めて認めてもらうための手段としていろんなものに手あたり次第手を出して、その中で残ったいくつかのものが今の趣味になっています。

中学生くらいには、自身の性格とそれが及ぼした自業自得もあって、他人からの承認がないと不安で仕方ない子どもになっていたので、絵は授業中もずっと描いていました。褒めてもらって、それによって愛されたかったので、本当に「66号線」の歌詞のような状態ですね。

全く授業に身が入っていなくて、先生方には申し訳ないことをしたと思っているんですが、あのときはあれ以外の選択肢がなかったようにも思います。絵が描ける、という地位に頼り切って、それによって友人も作っていました。

 

ただ、褒めてもらう度に、何故か「いや、そうじゃない」という変な切り返しをよくしていたように思います。謙遜とはまた全然別のもので、称賛の言葉を否定したい気持ちがありました。

当時はそれがなんなのかわかっていませんでしたが、そのうちに、やればやるほど褒めてもらえるのは確かだけど、これではなんにも作れないな、ということに気づいてしまったんですね。自分の好きなものを描けばいいんですが、元々好きで始めたことではないので、これが描きたい、なんてものがほとんどなかったのです。

絵を描くことは楽しいとは思えるのですが、それはあくまで描けるからであって、絵自体への愛情が果たして私にあるのか未だによくわかりません。

でも、私が想像している「すごい人間」というのは、自分の手でなんでも作ってしまうような、次々に素敵な世界を生み出していけるような、そういう人を指していたので、技術だけつけようとばかりしてきて何にも生み出せない自分に、どこかでずっと辟易していたのでしょう。

創作だとか話を考えるだとかいうことが苦手だと思っていましたが、そもそもそれにちゃんと向き合ったことがなく、また向き合う心の余裕もありませんでした。

 

最近になってようやく、創作をちょっとずつ始め出しています。ものすごい戸惑いがあり遅々として進まないうえ感覚がまだつかめないのですが、やりたかったことに着手している感があって嬉しいです。

そしてそうなってみて初めて、「絵がうまいね」と言ってもらえることを素直に喜べるようになってきました。表現方法の一つとして、自分の絵を技術的に見ることができるようになったのかなと思います。

この技術でもって何が作れるのか自分でもまだわかりませんが、絵の練習だけでもずっと続けてきてよかったと思えるようになりたい、というのが今の一つの目標です。

そしてできれば、今度は生み出したものによって愛されるようになりたいと切に願います。

 

 

 

最近目が覚めると頭が痛い

うっかり食べずに寝てしまって夜中に風呂だけ入って頭乾かないうちにまた布団に入る、ということをちょいちょいやってしまっていて、いろいろ体に不具合が起きてるんだろうか。何が原因かもよくわかってないです。

 

昨晩は、中学の頃の友達と、何か大きい健康ランドみたいな場所に健康診断受けに行く夢見ました。

みんなでキャアキャア言いながら準備してたんですが、私は唐突にシャワー浴びなきゃ、と思いシャワー室に行きます。大きな脚立みたいなものに上ってシャワー浴びないといけなくて、5分10分で戻るつもりがものすごく手こずってしまって焦りました。しかも使用料が5分ごとに加算されていく。やばいやばいと思いながらふと足元を見ると、どこにやったんだろうと思っていた私物が何故かそこに置いてありました。(夢から覚めたら実際は持っていたこともないようなものばかり)

懐かしいなぁと思って、私は前に一度ここにきたことがあったかしら、と思ったところで目が覚めました。

 

昔の友人に会う夢が多いですね。あと夢の中で大体焦ってるのはなんなんだ。

健康ランドみたいな場所に行ってたのは、多分今度友達と休み合ったら行こうと言ってるスパワールドに行きたくて仕方ないんだと思います。

 

歯車

という意味の、「ギア」というパフォーマンスステージを友達と一緒に観に京都に行ってきました。

人間のいなくなった未来の荒廃した工場で動き続けるロボット達と、その工場の製品である女の子の人型人形「ドール」とのふれあいを描いた内容なんですが、メインがパフォーマンスということで、セリフが一切ありません。(ノンバーバルパフォーマンスというそうです)

ロボット役の方がそれぞれマイム、ブレイクダンス、マジック、ジャグリングを、ドール役の方が華麗な踊りを披露してくださるのですが、それぞれの手際はもちろんのこと、みんなが息ぴったりで動いているところなんかすごく楽しかったです。光の演出や音楽との合わせも凝ってて、本当に楽しい舞台でした。

 

個人的にジャグリングの方(日によって人が変わるみたいですが、今日の方はRenさんというパフォーマーさんでした)がすごい人懐っこそうで可愛くて、比較的小柄な体でぴょこぴょこ動き回ってるところと、パフォーマンスをしているときのなめらかな動きのギャップが大変素敵でした。

あとマジックの方が、客席に来てお客さんの髪の毛の中から部品を取り出す、みたいなマジックをされたんですが、私の頭でもやってくださってうっかり惚れかけた。間近で見ましたがタネはさっぱりわかりませんでした。

いろんな分野のパフォーマーさんが集まって一つの舞台を作ってるというのが非常に面白くて、何よりみなさん楽しそうなのがよかったです。

 

連れてってくれた友達に感謝です。彼女はもう何回も観に行ってるようで。

公演延長決定したそうなので、私もぜひまた行きたい所存。

夢について

昨晩見た夢について。なんだか印象的な夢だったので。

 

私は、同窓会のようなものに参加するために地元に帰ってきていました。

それも、合同同窓会?のようなもので、地元と言っても広範囲から同じ年の人たちが集まってきていて、全く知らない人たちもいます。

あれだけ広範囲の同窓会なら中学や高校の同級生がいてもおかしくなかったのですが、なぜか出会うのは小学校のときの同級生だけでした。

 

正確には、同窓会というより、みんなで過去を振り返るためのイベントだったように思います。その場ではみんな、今どうしてる、という話は全くしていませんでした。

とても個性的な人がたくさんいて、地元にもこんなに変わり者で突き抜けていて面白い人がたくさんいたのか、私は何を見ていたんだろう、と思っていました。

何人かの知らない人たちと行動を共にするグループを組みました。中には私の小学校の同級生と昔馴染みだという人もいて、知らないところで彼にはこんな繋がりがあったのか、などとなんだか感心していました。

 

私は、振り返りもそこそこに、せっかく地元に帰ってきたのだから、早く家に帰って家族とゆっくりしたいと思っています。

姉も帰ってきていて、私も知っている姉の友人がこっちまで遊びにきているから、一緒にカラオケでも行かないかとLINEが飛んできていて、私は行きたくて仕方ないのですが、イベントは間延びしていてなかなか帰れそうにありません。

昼くらいには帰って家族とご飯に行こうと言っていたのに、だんだんと夕方になっていって、私は悲しくなっていきました。そろそろカラオケも切り上げてお母さんたちと晩ご飯に行くから、私にも早く帰ってくるようにというLINEが飛んできて、私はとにかくそこを去る方向に話を持っていこうとします。

 

しかしなかなか帰れません。メンバーとはぐれてしまい、さっきまで回っていた場所に戻ってみれば、さっきはイベントの一環だったからよかったが、住人でもないのにあんまりほいほいとここに出入りするな、とそこの住人に叱られたりします。

途中同じ小学校の同級生に会い雑談していると、電話がかかってきて、見ると出ることのできない番号?だったのですが、同級生が「このタイプの携帯ならとれるんじゃないか」と言い出して、電話に出ました。最後の催しがあるから来い、という連絡でした。

 

行ってみるとメンバーもいて、大勢の人がまばらに集まっていました。薄暗い岩場のような場所で、私たちはそこで、たくさん生えたり置かれたりしている植物を指さし、この中で元々ここに自生している植物を当てろ、という指示を受けました。

挿し木されたらしい桜の小枝や、真っ白なフクロウがとまる大きな木や、鉢植えの植物や、その辺に生えていそうな野草や、ごちゃっといろんな植物が集められていて、早く帰りたい私はとにかくそれにさっさと答えてイベントを終わらせ、打ち上げムードのメンバーに帰ることを告げてその場を後にしました。

 

何故か、大学の友人たちが迎えに来てくれていました。

帰りしな、イベントの実行委員会から、昔の思い出として紙の束を渡されました。20cm四方の正方形の紙が1mほど詰み重ねられた束で、私が授業中にプリントの端に描いた落書きなんかが印刷されていて、確かに自分を振り返るには丁度いいと思って持って帰ります。

何故か紙束の一番上には、大学の友人が私に対しての正直な思いを書き綴った作文のようなものがついていて、しみじみ読んでいたのですが、これはここで読むべきものではないと思い直して帰路につきました。

友人たちとはすぐに別れることになりました。みんなそれぞれの方向に帰る電車に乗っていきます。

最後に、唯一方向が同じ電車に乗る友人と並んで歩きながら、死のイメージについて話していました。私は、オフィスの真ん中で倒れるか、道路の真ん中で車に轢かれるというのが自分の持つ死のイメージだ、と言い、そこで目が覚めました。

 

 

自分の夢について意識を持つようになると夢の方も必ずそれに呼応してきて、いろんな自分のことを教えてくれる、という話を最近聞いたので書いてみました。

自分でもわけがわかりませんが、目覚めたときは大事なものと別れてきたような物悲しさがちょっとだけあり印象的でした。