さかな食堂

近況報告です。なんか作ったりどっか行ったりしたことを書ければいいなぁ。

聞かなきゃいけない話がまったく頭に入らないのは

愛されたくて必死だから、というBUMPの「66号線」という曲の歌詞があるんですが、ものすごい身に覚えがあって気に入っています。

BUMPの曲にはたまに、見てんじゃねぇのかってくらいものすごい自分とリンクするものがあって、本当に吃驚します。他の人がどう聴いてるのかはわかりませんが、リンクするが故に、この感情をここまでそのままの形で届けられる藤原さんに驚愕の念が尽きません。特別BUMPが好きなわけではないのですが、いつもすごいなぁすごいなぁと思って聴いています。

強く共感できるものが形にされているのを見ると感謝の気持ちが湧いてきます。

 

昨晩、同じ店舗でよく楽しく雑談してくださる先輩二人に、新入社員歓迎会を開いてもらいました。仕事場の人だし、変なこと言ったらどうしよう、おとなしくしといた方がいいかしら、と少し落ち着かない気持ちで行ったんですが、いつも通り話しやすいお二人で、実に楽しい二時間を過ごさせてもらいました。

その中で、絵を描く、ということを話したんですが(大抵誰にでも話すんですが)、ちらっと描いたものを見てもらって、ものすごく褒めてもらって嬉しかったです。

「こんな風に描ける人って身近にいるもんなんだ」とまで言っていただいて、震えが止まらなくなりそうだ。

 

最近でこそ自分のために絵を描こうという気持ちが持てるようになり、恒常的に描きたい気持ちが保てるようになってきましたが、元々褒めてもらうために絵を描き出した人間でした。

すごいことができるすごい人間、というものへの憧れが小さい頃から異常にあって、褒めて認めてもらうための手段としていろんなものに手あたり次第手を出して、その中で残ったいくつかのものが今の趣味になっています。

中学生くらいには、自身の性格とそれが及ぼした自業自得もあって、他人からの承認がないと不安で仕方ない子どもになっていたので、絵は授業中もずっと描いていました。褒めてもらって、それによって愛されたかったので、本当に「66号線」の歌詞のような状態ですね。

全く授業に身が入っていなくて、先生方には申し訳ないことをしたと思っているんですが、あのときはあれ以外の選択肢がなかったようにも思います。絵が描ける、という地位に頼り切って、それによって友人も作っていました。

 

ただ、褒めてもらう度に、何故か「いや、そうじゃない」という変な切り返しをよくしていたように思います。謙遜とはまた全然別のもので、称賛の言葉を否定したい気持ちがありました。

当時はそれがなんなのかわかっていませんでしたが、そのうちに、やればやるほど褒めてもらえるのは確かだけど、これではなんにも作れないな、ということに気づいてしまったんですね。自分の好きなものを描けばいいんですが、元々好きで始めたことではないので、これが描きたい、なんてものがほとんどなかったのです。

絵を描くことは楽しいとは思えるのですが、それはあくまで描けるからであって、絵自体への愛情が果たして私にあるのか未だによくわかりません。

でも、私が想像している「すごい人間」というのは、自分の手でなんでも作ってしまうような、次々に素敵な世界を生み出していけるような、そういう人を指していたので、技術だけつけようとばかりしてきて何にも生み出せない自分に、どこかでずっと辟易していたのでしょう。

創作だとか話を考えるだとかいうことが苦手だと思っていましたが、そもそもそれにちゃんと向き合ったことがなく、また向き合う心の余裕もありませんでした。

 

最近になってようやく、創作をちょっとずつ始め出しています。ものすごい戸惑いがあり遅々として進まないうえ感覚がまだつかめないのですが、やりたかったことに着手している感があって嬉しいです。

そしてそうなってみて初めて、「絵がうまいね」と言ってもらえることを素直に喜べるようになってきました。表現方法の一つとして、自分の絵を技術的に見ることができるようになったのかなと思います。

この技術でもって何が作れるのか自分でもまだわかりませんが、絵の練習だけでもずっと続けてきてよかったと思えるようになりたい、というのが今の一つの目標です。

そしてできれば、今度は生み出したものによって愛されるようになりたいと切に願います。