さかな食堂

近況報告です。なんか作ったりどっか行ったりしたことを書ければいいなぁ。

痛いの痛いのとんでゆけ

なんで痛いって打ったら最初に遺体が出てくるのか。

 

暑くなってきました。

この時期になると私は小学生のときに読んだ「キツネ山の夏休み」という本が読みたくなります。

夏休みを田舎のおばあちゃん家で過ごすことになった弥という少年が、そのへんにいる妖怪たちとともに不思議かつエキサイティングな夏休みを送るという話。田舎ののんびりさや懐かしさ、お祭の雰囲気や夏の終わる寂しさといったものがちりばめられていて、本当に大好きな作品です。

ぜひあれは小学生のうちに読んでみてほしい。あれを読んだだけで、特別何もなかった夏も素敵な思い出でいっぱいになったような気持ちになれると思います。

でも、逆に大人になってからあれを読んでみてどう感じるのかというのも聞いてみたい。児童文学なので、文章の易さが全体の読み味の軽さになってしまわないかが心配ですが、あの作品に閉じ込められた昔懐かしい夏休みの空気を感じ取ってもらいたいです。

 

小学校の頃の夏休みのウキウキさったら、今思い出しても心躍ります。中学高校と上がっていくごとにあの感覚が薄れていくのがそれだけで残念に思えたほど、特別な気持ちでした。

田舎に生まれて、幸いにも特に不自由や不満を感じることなく育ってきました。そのへんに生えてる野草で遊ぶ遊び方をおばあちゃんに教えてもらったり、ちょっと薄暗くてドキドキするような、人っ子一人いない漫画に出てきそうな林やせせらぎに囲まれて過ごしました。ザリガニ釣りとかしたのが本当に懐かしいなぁと。

それが当たり前だったにも関わらず、不思議と、成長して感受性が意識化されてくるにつれて身の周りのものにいちいち感動するようになり、私はずっとここに生まれてよかったなぁと思いながら過ごしていました。

そうやって田舎に育ってきたからこそ、ときどき繰り出す都会が特別に感じられて、人の多さやごみごみとした感じも、最初こそ苦手でしたがだんだんと惹かれていったり。ふと顔を覗かせる路地裏や建物の隙間がまた何故かすごく好きで、人でごった返す中の寂しさというものを、今でもどこかでずっと追い求めています。

 

都会で暮らしたいなんて思ったことのない子ども時代でしたが、今現在、あの頃にしてみればずっと都会な場所に住んで、これはこれで気に入っている自分がいます。

むしろ私は自分の生まれた田舎を愛しているからこそ、成長して都会で暮らしている今も悪くないと思っています。両方好きになれましたし。

 

結局そのあたりが、自分のルーツになっているんだなと最近思います。

 

私は、テレビがすごく苦手です。あと、文字や内容が多い雑誌も苦手です。

どうもテンポが速すぎるというか、情報が多すぎて受け止めきれないのが嫌で、実家にいたころはテレビがつくだけで嫌な顔をしていたものでした。一つ一つの情報に向き合うような時間がほとんどないので、すべてがただ右から左に流れていくのみに感じられます。

テレビがついているとつい見てしまう、というのも嫌いな原因の一つでした。なんとなく見て、受け止めきれない情報に諾々と曝されながら、何一つ得るものなしに時間が過ぎていく、というのが耐え難かったです。

とはいえ、ニュースなんかはむしろそうやって流し見るだけでもいいから見ないといけないなとは思っているのですが、今はテレビ自体が苦手すぎてそもそも家にないのでどうしようかな状態です。

 

それから、昔から放浪癖があります。電車でふらっとどこかに行ったり、とにかく出かけるのが好きでした。大学時代も一人で東京に行ったり、北海道まで友達の家に遊びに行ったりしていました。でも観光は苦手です。

 

そんな風にあげつらっていくと、どうやら私はただそこに当たり前にあるもの、それも人がいて成立しているけれど、意図して生み出されていないものが好きらしいということがわかってきました。建物の隙間やお祭の寂しさもそうですし、一つ一つの家は意図して建てられているけれども全体としてそうなっている分には誰の意図も働いていない街並みも好きです。

なんでも、人の意図が入り込むとわざとらしさが入ります。もちろんそれがあって生まれる美しさもありますし、圧倒的な努力でもって人為的にわざとらしさを消し去って感動がもたらされるということもありますが、意識と意識の間に生まれる無意識、というのがやはり私は好きなようです。

 

そんなものが好きなものですから、無粋なものや不躾なものというのが極端に嫌いです。特に自分の世界において、勝手にどかどかと入り込んでくるものには嫌悪感があります。私にとってのそれが主にテレビやら雑誌なのでしょう。

下品さや汚さはないもののように遠ざけすぎると綺麗なものにも人為が紛れ込んできますので、それはしようと思いませんし、時々そういうものが味わいたくて無性にテレビが見たくなったりすることもあります。が、基本的に普段は自分の世界を守って拒絶してしまいます。

 

そして、あくまで自らの意思で、自分の足で、いろいろな場所に赴きたいと常に願っています。

意図が入り込むのが嫌といっておきながら矛盾するようですが、全部を受け止めることは結局できないですし、受け止めきれないものにずっと曝されていると無力感にとらわれてしまいます。

なので、せめて自分の足で行ける範囲、と囲いだけ決めて、あとはその囲いの中でぶらぶらとしながらゆっくり無意識で非人為的なものを楽しみたいのです。

ちなみに今、私の中で行ける範囲は国内だと思っています。沖縄と北海道には行ったことがあるので、両端に行けたならあとはどこだって行けるだろう、という安易な感覚ですが。

いずれ、海外も行けそうだ、と思ったなら行きたいと思っています。

 

つまり何が言いたいかと言うと、私の根底にあるものはこういうものですよ、ということです。

 

いろいろ書きました。最近自分らしさだとかなりたいものだとか、そういったことについて悶々と考えることが多いので、ちょっと頭を整理しようと。なんて若者らしい悩みなんだ。